泡盛に次ぐ第二の地酒へ。
ローカルに活力を生む「IMUGE.」の真価とは!?

琉球王朝時代、15世紀から19世紀にかけて、泡盛は奉納品としての役割があった。中国から派遣された冊封使のもてなしのための酒宴に並んだり、1609年の琉球侵攻以降は薩摩藩島津氏を通し、江戸幕府へ献上されるようになるなど、政治的なやり取りの中で用いられた事実は、泡盛という酒が特別なものであることの裏返しとも言えるだろう。

 

一方で、泡盛が献上品として重宝されるようになればなるほど、庶民にとっては手が届かない高級品になっていった。そして、その反動は甘藷や黒糖という身近な素材を工夫した自家製酒を生み出すことになる。それがイムゲーである。漢字にすると「芋下」。庶民の芋酒=イムゲーは琉球王朝時代から明治時代に至るまで、庶民の生活に寄り添う酒として人気を博すこととなった。

 

イムゲーはどのようにして作られるのか?

イムゲーの材料である中南米原産の甘藷は、琉球王朝時代に中国を経由して沖縄に持ち込まれた。もともと台風が多く、米作りには適さなかった沖縄で甘藷は食料品としての存在価値を大きくし、その延長線上で酒の原料にも使われるようになったのである。

 

麹に水と酵母を加え発酵させる一次仕込、そこに甘藷を加えて発酵させる二次仕込を経て作られる芋焼酎とは異なり、イムゲーはさらに黒糖(粒と粉)を加えて発酵させる三次仕込まで行われるのが大きな特徴。甘藷と黒糖という原料の組み合わせで作られるイムゲーはまさしく沖縄の風土をそのまま映し出すかのようでもあり、生活に根ざしたものとして、庶民に愛され続けたというのも素直に頷けるというものだ。

一世紀ぶりの復活、その名も「IMUGE.」

イムゲー

官製の泡盛に対し、自家製酒として嗜まれてきたイムゲーだが、明治後期に酒税法が施行されたことをきっかけに下火になり、大正時代にはその姿を消してしまった。

時は流れ、イムゲーの記憶は遠ざかり、もはや幻の酒となりつつあった中、沖縄県工業技術センターの働きかけにより、イムゲーは再び日の目を見ることになる。請福酒造、多良川、久米島の久米仙の3酒造により、現在の酒造技術に置き換えてアレンジしたイムゲー、その名も「IMUGE.」が生み出されることになったのである。

「IMUGE.」は沖縄の芋と沖縄の黒糖で作られることが大原則。つまり「地産地消」を体現する旗手としての存在意義を色濃く内包している。今ではあまり作られなくなったが、沖縄の気候にあった作物である甘藷の需要が高まり、改めて栽培が盛んになれば、新たな産業の創出にもつながるだろう。「IMUGE.」の生産が引き金となり、ローカルに活力が生まれるのは想像に難くない。

紅芋・白芋・橙系など、甘藷の種類や黒糖の分量を組み合わせることで、そのレシピは幾通りにもなることからもわかる通り、もともと庶民の酒と言えど、その真価は計り知れないものがある。泡盛に次ぐ「第二の地酒」として、「IMUGE.」のチャレンジは果てしなく続きそうだ。